共感せずんば人にあらず──『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?(Do Androids Dream of Electric Sheep?)』

そのキャッチーなタイトルと、映画『ブレードランナー』の原作としても有名な、Philip K. DickによるSF小説。人間によって作られた電気動物やアンドロイド、感情を作る情調《ムード》オルガンとの関わりを描くことによって、「人間とは何か」というテーマに切り込んだ作品になっています。

キリスト教的価値観が至るところに反映されているせいか、日本人の自分としては少し読みづらいところがあったり、物語の前半は展開が鈍いところがあります。舞台設定や哲学的問いかけ方に重点がある作品なのではないでしょうか。

どうやって読み解けばいいのか自分にはちょっと考えあぐねていたのですが、訳者あとがきを読むと読解の方針が示されているので、そこに頼り、人間性とアンドロイド性、感情移入をキーワードに感想をまとめたいと思います。

物語について

舞台は1992年のアメリカ。第二次世界大戦後に更に第三次世界大戦が起こった世界。地球には放射能汚染された死の灰が降り注ぎ、人類は火星への移住を強いられていました。

戦争兵器として利用されていた有機的アンドロイドたちが、植民計画として火星に移住する人間に提供される一方、地球では法的に生殖を許可された人間である適格者《レギュラー》の中からも日々、遺伝的に障害のある特殊者《スペシャル》が生み出されています。また精神機能テストを受けて基準を満たさなかった人間はピンボケとして社会から疎外されて生きていました。

物語は、火星から奴隷労働を逃れて地球へ脱走してきたアンドロイドを処理する賞金稼ぎのリック・デッカードと、ピンボケの特殊者として生活するJ.R.イジドアの二人の視点から描かれています。全体で22の部分に分けられていて、2,6,7,13,14,18セクションではイジドア視点で、他は主にリック視点で進行していきます。

ローゼン協会が生み出したネクサス6型脳ユニットを搭載した新型アンドロイドは、ほとんどの検査法で人間と識別不可能で、主人公リックに残された手法は、フォークト・カンプフ感情移入度検査法で、生物に対する感情移入を測定するものでした。

ローゼン協会、警察、脱走したアンドロイドたち、それぞれの思いが交錯する中主人公は人間とは何かという問いに対峙していくことになります。

キーワード

人間とアンドロイドを識別する方法が生命への感情移入というところからも、著者は人間性を、生命に対し共感できるか、生命に対して親切であるかということに重きを置いています。アンドロイド性人間性の反対を意味しますが、作中ではこれは生のないもの、死の灰キップルとして表現されているようです。

キップルとは、役に立たないものを意味する著者の造語です。『キップルキップルでないものを駆逐する』。これがキップルの第一法則です。グレシャムの法則エントロピー増大の法則を連想させるこの法則は、退廃的なこの小説の世界観も含めて小説を通して表現されているテーマの一つです。

基本的に著者はアンドロイドと人間を対立するものとして描いていますが、当然そんなものは厳密に切り離せるものではありませんので、人間の中にアンドロイド性を発見し、アンドロイドに人間性を発見し、葛藤が生じることになります。それが、主人公が乗り越えるべき壁として様々な形をとって入れ替わり立ち代わり現れてきます。

この壁はまさに人間とは何かという疑問なわけで、この疑問に答えられなくても、乗り越えていくことで自分の生き方を主人公は手にしていったように思えます。

主人公には前提として人間とアンドロイド、生物と無生物の対立があり、それはいろんなところにその象徴がちりばめられています。たとえば、ウィルバー・マーサーバスター・フレンドリー。マーサーはマーサー教の教祖的存在で、一方のバスターはテレビショーの演者でバカ笑いを誘い、ときにマーサーを皮肉る存在です。

ぼろぼろのガウンをまとっている老人マーサーは荒れ果てた上り坂を、どんよりとした空の下、途中石ころを投げつけられながらも、苦しげに登っていきます。墓穴世界に落ちながらも何度でも復活する永遠の人物。キリストをモチーフとして描かれている存在でしょう。

そして人間たちは皆、共感ボックスというVR装置のようなものでマーサーと融合します。それはアンドロイドと違い感情移入ができることを示す証です。

一方のバスターは共感ボックスではなくテレビを通して人々に語り掛ける存在です。永遠のマーサーにたいし、バスターも一日にテレビとラジオで合計46時間出演する不死の存在です。実はこれはバスターがアンドロイドだからなのですが。そんなバスターは物語の後半に、マーサーが実はただの三文役者の演戯であったことを暴き出し、ただのいかさまであったことを発表します。

アンドロイドたちはこの発表に喜びます。人間たちがマーサーに近すぎてそのいかさまに気付かなかったのに対し、彼らは冷静で、張りぼての偶像に人間たちに距離を置いていたからそこに気づけたわけです。

キリスト教を信じ、バカ笑いするテレビを見る人たち。敬虔であるひと、批判的な見方をするひと。人間の中に人間性とアンドロイド性が当たり前のように存在することを表しています。

人間とアンドロイド、賞金稼ぎ。適格者と特殊社。情緒オルガン。

タイトルについて

Do Androids Dream of Electric Sheep?

この夢、眠り、ヒツジ、という幻想的自然的表現とアンドロイド、電気的という文明的人工的表現の結びつきが、奇妙にも哲学的雰囲気を醸し出しています。これは絶妙と言わざるを得ないタイトルではないでしょうか。自分がこの本を読もうと思ったのも、このタイトルが前々からすごく気にかかっていたからです。

自分の勝手な印象では、すこしふわふわとした幻想的な中に、哀愁と希望がつまった、そういうSFを妄想していたんですが。実際はちょとキツ目(笑)。

16セクションの冒頭で、「アンドロイドも夢を見るのだろうか?(Do androids dream?)」とリックが自問するシーンがあります。おそらくここからもじったものだと考えられます。

この部分は、睡眠時の夢ではなく、よりより生活を夢見るという希望という意味で使われています。また、ヒツジなどのペットを飼うことは共感性を誇示するものでもあり、また、ヒツジを数えて眠るというのもまた人間的なことです。

いろいろ意味は考えられるんですが、どれもちゃんと説明できないところが残ってしまい、本文からはこのタイトルの意味を明確に捉えることはできませんが、そこに余韻を感じさせるタイトルです。

 

格付けと疎外

人間は、(アンドロイドも)特別な存在になりたいという欲求があります。それが個人として存在する価値となるからです。自分の存在価値を見失うと感情が麻痺し鬱になります。

だから人間はアンドロイドを排除し、ピンボケ、特殊者を疎外します。そのための理由が、機械か生命かということだったり、精神テストの基準を満たすかということなのです。本文でも、くどいほどに、彼とそれを明確に区別しています。

そして自分たちも疎外されないために、ペットを飼い共感能力を誇示します。

でも実際には、自分が本当に共感性を持つかも、検査してみないと確信が持てなかったり、アンドロイドに対しては共感を示さなかったり、感情移入か性欲なのかもわからなかったりと、アンドロイドと違う「正常な」人間と本当に言っていいのかもあやしいところがあります。

逆に、アンドロイドたちもアンドロイドを愛し、また同情し、敵に復讐心を燃やす存在であることがわかります。

主人公は、人間が集団的存在だから共感性を示し、アンドロイドは肉食動物のような独り立ちの機械だから共感性を持てないのだと、まるで本質的に違うのだという理由付けしていましたが。結局は、敵か味方か、ただそれだけのことなのかもしれません。

死の灰も、キップルも、奴隷から脱走するアンドロイドたちも、役に立たない、敵であると人間側が切り離したことで結果として生み出されてきました。全世界がキップル化していくという、キップルの第一法則はそういう疎外する気持ちから生まれるのではないでしょうか。

日本人は八百万の神というように物質にも魂を感じ、彼とそれを明確に区別する価値観はないということで、あまりにもアンドロイドを軽視するようなことはないという考えも沸くかもしれません。しかし、アンドロイド性とはそもそも、世界と接触せず機械的な生活を送る、世界の役に立たない、世界に共感を示さないものを指します。引きこもりが白い目で見られうるように、私たちも他人ごととは言えないのではないでしょうか。

潜在する社会的脅威と開拓

じゃあ敵など作らずに、すべてを受け入れればいい、というわけにもいきません。先住民のように、許しているだけでは侵略されてしまうかもしれません。国家としても、警察や軍備というのは必要なものです。

自分だけで閉じこもり、攻め込んでくるものだけを敵とみなす。そういうやり方では開拓はできません。立ち止まれば衰退する、これが進化の法則です。

差別せず疎外しないためには、敵に石を投げられることに立ち向かう勇気と、相手を見極める慎重さを一人一人が持つほかない気がします。

本当の共感

わかったつもりで、わかっていないということはよくあります。

情緒オルガンで感情をコントロールできる人類。リックは妻イーランがあえて憂鬱な感情を選択する気持ちがわからず、合理的に妻を説得しようとします。そして自らも欝々とした状態になって初めて、妻の選択を回避できないことを理解しました。

人間もまた、相手の立場になってみないと共感できない、わからないことがあります。自分には説明できないことでも、すべての行動は何らかの筋があるものです。理解できないからおかしい、正すべきだと主張するのは、共感する機会を失うとともに、一方的に疎外しているということを忘れてはいけませんね。

新しいイデオロギーの準備。

おわりに

感想と言いながらだいぶ評論臭くなってしまいました。文章がうまい人というのは、去りばめるのがうまいんでしょうか。評論としてぶった切ろうとしてもすぱっと切れない感じがします。まだ読み取れてないところがあって、展開という点でも(小説なのに)あまり触れられなかったので、また読むべき時が来れば読みたいです。

この作品では、人間とは、親切という人間性を持つものという結論を出しているようですが、皆さんはどう考えるでしょうか。

タイトルの意味や、ヒントになりそうなことでもあればコメントいただけるとありがたいです。

参考資料

アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (ハヤカワ文庫 SF (229))

アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (ハヤカワ文庫 SF (229))

 

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